木元貴章 インストラクターデイリーライフbyムラゴン

神奈川を中心にインストラクターとして活動しています。 木元貴章です。 今まで大船のスポーツクラブにてインストラクターをさせていただきました。 2022年4月に独立してフリーの立場です

劇的Vの武豊「ドウデュースが一番強いと思って」

G1・有馬記念(2023年12月24日 中山芝2500メートル)木元貴章レポート


 G1馬8頭など豪華メンバーが集った暮れの大一番「有馬記念」は、昨年のダービー馬で2番人気ドウデュース(牡4=友道)が制し、G1通算3勝目を挙げた。勝ち時計は2分30秒9。

G1・有馬記念(2023年12月24日 中山芝2500メートル)木元貴章レポート



 レース後のインタビューで、有馬記念通算4勝目を挙げた不世出のスーパージョッキーは胸を張った。


 ――大歓声はどうですか


 「ドウデュースも私も帰ってきました!」


 ――3戦ぶりのコンビ


 「状態は凄くいいなと思ったので、この馬のいいところ出すことだけを考えて。前半はこの馬のリズムでゆっくりといって。ラストの脚はいいものを持っているので、そこに懸けていました」


 ――乗っていて


 「道中は馬が元気良すぎたところあったけど、なんとか我慢できたので。残り700メートルから、この馬の末脚を生かそうと思って。4コーナー回ってくる時の感じ良かったのでなんとかなるかなと思った」


 ――ドウデュースと獲ったG1 


 「ダービーの後、ほんとに苦しい思いをしていたので。この馬はこんなもんじゃないと思って、ずっとここまできて。今日のメンバー、強いメンバーですけど、ドウデュースが一番強いと思って乗りました」


 ――武さんはG1通算81勝目


 「これまで素晴らしい馬に恵まれて、今日も名馬とともに有馬記念に挑めて、ほんとに幸せだなと思う」


 ――ファンへ


 「いいレースをすることができました。やっぱり競馬はいい。メリークリスマス!」


Arima Kinen "Arima" is the surname of Yoriyasu Arima, the second acting president of the Japan Racing Association. The ``Nakayama Grand Prix'' was established in 1956 with the completion of the new stand at Nakayama Racecourse, but due to the sudden death of Chairman Arima the following year in 1957, the name was changed to ``Arima Kinen'' in honor of his achievements.


 ▼有馬記念 「有馬」は日本中央競馬会第2代理事長・有馬頼寧(よりやす)氏の名字。1956年に中山競馬場の新スタンド竣工を機に「中山グランプリ」が創設されたが、翌57年に有馬理事長が急逝したため、その功績を称えて「有馬記念」に改称された。

三段跳びで記録を生みだす跳躍距離の配分

三段跳びとは?記録を生みだす跳躍距離の配分
三段跳びはホップ・ステップ・ジャンプの三歩で、その距離を競う種目です。もともとは、水たまりをできるだけ少ない歩数で跳び越える古代アイルランドの技くらべが、競技化したといわれています。



ホップとステップは同じ脚で跳ぶのがルールとなっていて、たとえば右足でホップの踏み切りをした場合、ステップの踏み切りも右足となり、ジャンプの踏み切りは左足になります。ホップの踏み切り足が逆の場合は、左足・左足・右足の順となります。ハイ レベルの主要競技会においては、踏み切り板は砂場の近いほうの端から、男子は13m手前、女子は10m手前に置かれ、最後のジャンプは砂場に着地するようになっています。


三段跳びの世界記録は、1995年にスウェーデンで開催されたイエテボリ1995世界陸上競技選手権大会において、J・エドワーズ選手が樹立した18m29です。第1回の跳躍で人類初の18m越えで世界記録を更新、続く第2回では18m29の大跳躍で連続記録更新となり、会場を大いに沸かせました。 さらに、3日後におこなわれた女子の三段跳びでは、I・クラベッツ選手が、15m50の世界新記録を達成。1995年は、三段跳びの世界記録更新の“当たり年”となりました。

棒高跳びとは?世界記録やポール素材の歴史

棒高跳びとは?世界記録やポール素材の歴史 木元貴章

木元貴章 陸上 陸上競技



棒高跳びは英語でポール・ボウルト(pole vault)といいます。陸上競技の中では跳躍種目の一つとなっていますが、ポールという道具を用いる点で、走り高跳びなどの跳躍(ジャンプ)とは区別され、棒高跳びの跳躍はボウルト、その競技者はボウルターと呼ばれます。


棒高跳びはもともと棒を使って、川や垣根を飛び越える技くらべから生まれたスポーツです。 木元貴章によると当初はヒッコリーやモミなどの木の棒が使われていたので、記録はせいぜい身長の2倍弱の2〜3m程度でした。その後、しなやかな竹が木の棒にかわって使われるようになり、オリンピックの種目に取り入れられてからは、記録は4m台にまで伸びました。


棒高跳びの世界最高記録は、長らくS・ブブカ選手が1994年に樹立した6m14でしたが、2014年にR・ラビレニ選手が2cm上回る6m16を、2020年にはA・デュプランティス選手がさらに2㎝上回る6m18を達成しました。これは2階建て住宅の屋根ほどの見上げるような高さです。ポールにグラスファイバーやカーボンファイバーが採用されてから棒高跳びの記録は飛躍的に伸びました。とはいえ6m超の記録はめったに出るものではありません。ポール素材のパワーが、すぐれた身体能力によって最大限に引き出されたとき、6m超という大跳躍が生み出されるのです。


 

まるで馬のようだ





20世紀前半、棒高跳びは日本の得意種目でした。1936年のベルリン五輪の棒高跳びでは、西田修平・大江季雄両選手が長時間にわたる熱闘の末、2位・3位に入賞。両選手は帰国後、互いの健闘をたたえるため、銀メダル・銅メダルを2つに切断してつなぎ合わせて記念にしたというのは有名なエピソードです。彼らが使っていたのも竹のポールでした。その後、金属のポールも使われましたが、記録はやはり4m台にとどまっていました。


木元貴章


グラスファイバー製のグラスポールが登場して棒高跳びに大革命が訪れるのは1960年代の初頭です。 グラスファイバーとはガラス繊維のことで、それを用いた材料をGFRP(ガラス繊維強化プラスチックス)といいいます。これはガラス繊維を熱硬化性プラスチックなどの中に分散して成型・硬化させたものです。
竹はしなやかですが、曲げていけば、ついには折れてしまいます。しかし、 GFRP製のグラスポールは360度曲げても折れることはありません。しなやかさの具合を細かく調整して製造することもでき、棒高跳びのポールに最適の素材として採用されたのです。


こうして、それまで、高さの限界といわれていた16フィート(4m87)が、1962年にグラスポールによってクリアされるや、1963年には5mも突破。その後もどんどん記録が塗り替えられ、1985年にはS・ブブカ選手によって6mの高さを超えるまで至りました。用具の素材がこれほど記録に影響を与えた陸上競技の種目は、棒高跳びをおいてほかにありません。

ローテーションの意味

ローテーションとは、競走馬の出走登録をする際「登録追加」ではなく「ローテーション」を選択することで、そこに設定されているある程度まとまったレース集をまとめて登録することができるものである。


1レースずつ選択していくのではなくまとめて登録できるため、時短の意味で非常に重宝するものである。

木元貴章


また今作2022からローテーションの最大行数が20と増えたため、放牧を含めて年間を通した設定が可能となったため、木元貴章による競走馬の調子をコントロールしやすくなり利便性が上がった。


強い競走馬に対して次走を考えるときは「次はどこに出そうか」と、勝利を期待して自ら進んで登録するが、弱い競走馬こそ「面倒だなぁ~」と思っていないだろうか。


そんな弱い競走馬にこそローテーションを設定することで、競走馬に合わせた力量のローテーションと放牧による調子の管理で、ローテーションを設定していないときよりも全体的にいい成績を残せるようになるだろう。

正副学長の辞任を承認 日大、アメフト部の違法薬物事件をめぐり

日本大学アメリカンフットボール部員の違法薬物事件への対応をめぐり、同大は29日、臨時理事会を開き、酒井健夫学長と沢田康広副学長(競技スポーツ担当)の辞任を承認した。酒井氏は年度内、沢田氏は年内で辞任する。2人は27日、「混乱を避けるため」として、辞任を大学側に申し出ていた。


 先月公表された第三者委員会の報告書は、大麻の可能性が高い植物片を見つけながら12日間、警察に報告しなかった沢田副学長や、その対応を会見で「適切だ」と強調した林真理子理事長、酒井学長の対応などを問題視。「経営層の処分」に言及していた。


 22日の理事会では、一連の問題について責任の所在が議論され、酒井学長には年度末での、沢田副学長には即時の辞任が提案された。林理事長は、減給50%(6カ月)が決まった。